07.04.2017

この人じゃなくていいってことは、同時にこの人にとって私じゃなくていいってことなんだと最近気づいた。
電車の外を覗けば無数の窓が見えるけど、人はそれ以上いる。この中で誰かにとってかけがいのない存在になりたいなんて、気が遠くなるほど途方もない願いだ。
いくらでもいるのだ、良くも悪くも。

昔、同じクラス内でくっついたり別れたりして騒ぐ子達を見て、「水槽の中の金魚と一緒。運命なんてないよね」と言ったら「同じ水槽に入ったことが運命なんだよ」と言われた。

まだ自分のなかで腑に落ちてないけど、なんか頭に残ってる。実際、どうなんだろうね。

04.04.2017

男の子たちが道で別れる時が好き。「じゃな」「おう」で終わる会話、軽く手をあげる仕草。何をとっても女子文化には存在しえない、違う惑星の習慣。あこがれ。

小学生の男の子たちが言う「また明日なぁああ!!」も好き。言葉自体も良い。私だって路上であんな大声で「また明日」って言って走り出したい。

子供って「そこは走らなくてもよいのでは?」ってところでもずっと走ってるよね。大人が道を全速力で走ると鬼気迫ってる感がどうしてもぬぐえない。どうしたんだ…って瞬時に思っちゃうもんね。

大人はただ走るにも理由がいるのだな。

 

ここ最近「歳」に呪いをかけられてるので、気分を変えてここでランキング!

 

〈好きな言葉ランキングー日常編ー〉

3位「おやすみ」

2位「また明日」

1位「今夜はカレー」

 

でした。というわけで今夜はカレーです。おやすみなさい、また明日。(言ってみた)

 

 

03.04.2017

「自分のものが自分のものじゃなくなっていくのは嫌い。」

から始まる文を一気に書かせるほどの衝動だよ、昨日今日。

春は嫌でも気持ちが揺れる機会が多くて苦しいけど、生きてると再確認できる、春、感謝。

 

そりゃここまで生きてきたら正解なんてある程度予想は着くし、無難に話を畳むのなんてもはや名人芸の域だけど、そういう過程ではみ出した心はどうなるのかね。理由のない強い気持ちに襲われたとき道徳の教科書は全然あてになんないよねぇ。

 

せめて癒してくれるもの、たとえば。


平井堅x椎名林檎 キラーチューン & シャ・ラ・ラ (J-WAVE LIVE 2000+7)

 

02.04.2017

早生まれかどうかで体格に差がつく幼稚園児とは違って、中学や高校の1歳差や2歳差なんて本当にたいしたことじゃなかったのに。そこをあえて明確に線を引くことで年下でいることにも年上でいることにもきっと甘えていた。そして今も。

新じゃがと新玉ねぎがおいしい季節。四六時中あの多幸感あふれる甘みを夢見て作業。昔少し関わりのあった人がカルト団体の代表として声を張り上げているらしいと聞いた。

 

細い道を縦になって歩く。少しずつ道が太くなっていって横に並んで歩けるようになる。道幅はどんどん広がって、ふいに前から来た車を避けたりしているうちに道の左右に分かれる。気づいた時には信号を渡らないと向こう岸には渡れなくなってしまう。いるはずの相手の姿を見失ったことさえある。あんな微細な軌道のズレが今はこんなに。

 

年齢なんてとは思えど、私たちは自発的にも偶発的にもそれぞれの道に立つ歳であることは確か。こんな行き場のない切なさを癒しておくれ新じゃがと新玉。今夜はポトフ。

はじめまして

8歳のときの私の趣味は、車のナンバープレートの地名収集だった。
従姉妹と地元の遊園地に行った帰り、駐車場で迎えの車を待っていた。今はもうつぶれてしまったその遊園地もその頃は県外からの観光客も訪れるほどの盛況ぶりで、駐車場にはどこにあるかさえわからない県のナンバープレートが並んでいた。田舎でそんなものを見るのはとても珍しくて、見慣れない文字列をしげしげと見つめた。
いわて、やまがた、よこはま。従姉妹に読み上げてもらった「ここではないどこか」はどれも空想的な響きがした。
そのときから数年間、私は県外のナンバープレートを見かけたら記録をつけるようになった。
地元は二文字の県だったので、「和歌山」を初めて見たときなんかは、その文字のつまりかたにガチャポンのシークレットキャラを引いたときのような高揚感を覚えた。

ある日高速道路かどこかのまっすぐな道で、ふと見た前の車は「室蘭」だった。細々とした読めない字は手元のメモには確実にない「異物」。その頃には地元で見れるナンバーは大体制覇していた私にとって、久々の大物だった。帰っておばあちゃんに自慢すると、「むろらんって読むのよ」と教えてくれた。
ムロラン。むろらん。室蘭。
今思えば「室蘭」という語の持つ色気に当てられたのだと思う。ムで力を入れた唇をほどくようなロ。それをもっと解放させるランは軽やかでかわいい。漢字も気取っていないのに気が利いている。本当にそんな場所があるとは思えないほど色っぽいロマンが溢れていた。

それからいつの間にかその趣味は途絶えてしまった。
ナンバープレートを見なくても実際に県外に出ることも増えて、他県の名前は特別なものではなくなった。他人の車についてある文字を見るだけではもう心はどこへも行けなくなった。

今私は、たくさんの効率的で合理的で必要不可欠なことに囲まれて、自分を肯定する力が弱まりつつある。そんななか、ナンバープレートに夢中だった日々を突然思い出した。
私は不必要な余剰を大事にしたい。それをしている自分を肯定したい。
その気持ちをいつだって大声で言えるように、あの頃の自分を座右に置く。

このブログはその決意表明とそれに基づく日々の活動記録です。